なぜ日本で有名な戦艦が長門から大和に変わったのか

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今日において、日本で有名な戦艦といえば、『宇宙戦艦ヤマト』のモデルとなった「大和」が挙げられるが、戦前においては、日本で最も知名度の高い戦艦といったら「長門」だったという。ここではそれに関する理由を述べてみたい。

戦前に日本において知名度の高かった「長門」は、2番艦「陸奥」とともに長らく連合艦隊の旗艦を務めていたこと、41cm連装砲という、建造当時としては巨大な砲を備えていたこと、ワシントン海軍軍縮条約によって大型戦艦等の建造が制限されるようになったことなどが影響していわゆる「ビッグ7」と称される戦艦として有名だったことが挙げられる ((他にはアメリカのコロラド級戦艦3隻、イギリスのネルソン級戦艦2隻で成り立っている)) 。

一方、「大和」はそれを上回る46cm三連装砲を備えていたが、竣工が太平洋戦争開始直後だったこと、当時の国民には極秘扱いとして存在そのものが隠蔽されていたという事情から、戦時中の知名度があったとは言いがたい面がある ((これは「武蔵」も同様である)) 。

戦後、大和及び武蔵に関する情報が出回るようになったことで、それがビッグ7の一つとして有名だった長門を上回る巨大な兵装をしていたこと、それに加えて宇宙戦艦ヤマトのモデルになったことなどが影響して、次第に大和の知名度が長門を上回るようになったという経緯が大きいものと考えられる。

時代とともにもっとも有名な戦艦が何かというのが変わるわけで、それを踏まえると、あらゆる常識もいずれは変わっていく可能性があると言える。要はそれに適応できるかは結構かかってくるのではないのかと考えている。

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