横書き日本語のゆらぎと定着──戦前・戦後・技術革新まで

はじめに

現代の日本語表記では、縦書きと左からの横書き(LTR:左横書き)が用途に応じて併存している。しかし、戦前における日本語の「横書き」は、今日から見ると驚くほどの混沌を抱えていた。右から左(RTL:右横書き)の横書き、左から右(LTR)の混在、句読点や数字表記の揺れなど、多様な書式が共存していたのである。本稿では、なぜそうした混沌が生まれたのか、その文化的・歴史的背景を整理する。

1. 書字方向の混在:RTLとLTRの併存

戦前の日本語における横書きは、大きく分けて二つの方向が併存していた。一つは左から右へ書くLTR(left-to-right)であり、もう一つは右から左へ書くRTL(right-to-left)である。

LTRの初出としては、明治10年代以降に出版された英語学習書や西洋式の理数系教本において確認される。これらは欧文原典の翻訳や引用を含んでおり、自然と左横書きが導入される形となった。たとえば1870年代の英語辞書や数理書では、すでにLTRの表記が採用されていた。また、大正期には旧制高等学校や帝国大学を中心に理数系教育が整備され、これに伴いLTRの横書きが制度的に浸透した。

一方、RTLの横書きは印刷物としては明治期のポスターや標語、新聞の題字などで顕著に確認される。看板や垂れ幕などの視覚媒体では、縦書き文化を横倒しにした流れで自然とRTLが選択されたのである。特に鉄道の車両標示、軍事関係の布告、標語に至るまで、RTLの横書きは公共空間において強い存在感を持っていた。

このように、LTRは制度的・機能的な要請に基づいて導入され、RTLは文化的・慣習的に定着していったのである。両者は単なる混在ではなく、実はある程度の棲み分けが成立していたと見ることができる。

以下はその代表的な用途の違いをまとめた一覧表である。

用途分類主な書字方向備考
教科書(理数系)LTR欧米式論理展開に適応
英語教育資料LTRアルファベット対応のため一貫してLTR採用
手記・日記RTL縦書きの延長。筆記者の感覚に基づく
看板・標語RTL視認性重視。特に街頭・軍事用途で顕著
新聞の見出しRTLタイトルや題字など装飾性のある部分
学術論文LTR欧文フォーマットとの整合性

このように、単なる無秩序な混在ではなく、用途や意図に応じた「機能分化」が水面下で進行していたことは、戦前期の表記文化において注目すべき特徴である。

2. 句読点・数字・記号の混乱

横書きの表記が混在していたことに伴い、句読点や数字、記号の使い方にも顕著な揺らぎが見られた。とくに「、」「。」といった日本語縦書き由来の句読点と、「,」「.」など欧文表記に基づく記号が混在し、文章の書き方に一貫性が欠けていた。

明治〜昭和初期の教科書や報道資料においては、「、」と「.」が混在している例や、同一紙面で和文句読点と欧文句読点が交互に現れる事例も確認できる。たとえば1920年代の英語参考書では、日本語の解説部分には「。」を使いながら、例文の解説に挿入された日本語文には「.」や「,」が混じるといった表記が見られる。

数字表記についても同様である。公文書や新聞では漢数字(壱、弐、参)を正式体として使用する一方で、理数系教科書や技術書ではアラビア数字が主流となっていた。たとえば、昭和初期の理化学教科書では「1、2、3」が当然のように使用されており、文章中でも「第3章」や「5ページ」といったアラビア数字による記述が一般的であった。逆に、文学作品や契約書、公的公告などでは、依然として漢数字が用いられ、「第三條」「一、二、三」などが多用されていた。

括弧、引用符、罫線などの記号に関しても、縦書きと横書きで用法が異なるため、横書きが普及する過程では記述の混乱が避けられなかった。特に「」や『』などの和文引用符は横書きでもそのまま使用されることが多かったが、英語との混在がある文脈では“”や‘’が併用される例も見られた。印刷所や編集方針によっても揺れがあり、明確な統一ルールは存在しなかった。

このような句読点や記号、数字の混在は、日本語が横書きを本格的に制度化する以前の過渡期において、「どの文化基準に則るか」が確定していなかったことの証左である。それはまた、日本語という言語が、欧文との接触において表記の柔軟性と不安定性の両方を抱えていたことを示している。

以下は、戦前期に見られた表記ルールの混乱を示す代表的な対応関係である。

表記対象表記揺れの例備考
句読点「、」「。」 vs 「,」「.」和文と欧文の混在、翻訳文に顕著
数字漢数字(壱、弐、三) vs アラビア数字(1、2、3)文書の性質(公文書 vs 技術書)による使い分け
括弧・引用符「」『』 vs “ ” ‘ ’横書きでは欧文由来の記号も混用される
見出し装飾全角記号 vs 半角記号印刷所や文体による編集方針の違い

3. 教育と出版の揺れ

戦前期の日本では、教育現場や出版業界においても横書きの書式に関して統一的なルールが存在せず、LTRとRTLが場面によって混在していた。これは書字方向に関する明確な制度設計がなされていなかったことを反映している。

教育現場では、旧制中学校や高等師範学校において、教科書や配布資料の書式が科目によって異なっていた。たとえば、英語や数学ではLTRの横書きが一般的であった一方、国語や歴史では縦書きが中心であり、理科においても出版社によってはRTLの資料が混在していた。これは、各教科が参照する原典や学問体系が異なっていたこと、また教員の裁量が大きかったことによる。

出版社においても、たとえば岩波書店の学術書と、郷土出版社や小規模出版社による教材では、横書きの採用形式や表記の方向が大きく異なっていた。新聞社も見出しや題字ではRTLを用いながら、本文ではLTRを採用するなど、一紙面の中でも表記が混在することが少なくなかった。

文部省(当時)も横書きに関する包括的な指導要領を設けてはおらず、むしろ「現場の実情に応じて判断せよ」とするスタンスであったため、結果的に表記の統一は現場任せとなった。これは、教育制度そのものが明治以来の縦書き文化の影響下にありつつも、近代化に伴う欧米化の圧力を受けていた過渡期ならではの現象といえる。

さらに、印刷・製版技術の制約や経済的事情も混乱に拍車をかけた。LTRに対応した活字組版や印刷機は高価であり、地方の教育現場では旧来のRTL形式のまま教材を制作せざるを得ない状況も存在した。

このように、教育と出版における書字方向の混在は、制度設計の不在と現場の実務的制約が複雑に絡み合った結果であり、それは戦前日本語の書記文化の一断面をよく示している。

4. RTL手記の存在とその文化的背景

戦前から戦中にかけて、RTL(右から左)の横書きで構成された手記や記録文書の実例が少なからず確認されている。これらは単なる書字方向の選好によるものではなく、書き手の文化的背景や教育環境、さらには思想的傾向を反映したものと見ることができる。

特に、陸軍関係者や旧制中学出身者など、縦書き教育を徹底して受けてきた世代においては、日常的な筆記においてRTL横書きを選択する例が見られた。日記帳や備忘録、布告文の草稿といった私的・準公的な文書では、ノートの右端から左に向かって書き進める形式が自然と取られていた。こうした形式は、縦書きの行方向(右→左)をそのまま横倒しにした感覚に基づいており、書き手にとってはLTRよりも身体感覚に即していたのである。

実例としては、陸軍士官学校出身者による軍務日誌の一部において、RTL横書きで記されたページが確認されている。これらの記録は一般に非公開であったが、戦後に写本として残されたものの中にその形式が保存されている。また、一部の精神修養書や教育訓話の草稿には、右始まりの手記が付されたものがあり、思想性と表記形式が結びついていることを示唆している。

国粋主義的な価値観や欧米的モダニズムへの反発といった思想的傾向も、RTL表記の選択に影響を与えていたと考えられる。たとえば、昭和10年代に編纂された教育関連の資料や精神修養書の中には、意図的にRTLを採用した記述が確認されている。これらは、横書き=近代的・西洋的という連想に対して、日本語本来の書字方向としてRTLを“復権”させることを意図していたとも読み取れる。

印刷物としてはあまり多くはないが、筆写された草稿や回覧文書の写しなどにRTL手記の存在が確認されており、その多くは整った行間や視認性よりも、筆記の自然さと伝統意識を重視した様式で書かれている。

このように、RTL手記は単なる書式の問題ではなく、縦書き文化の延長上にある筆記習慣、ならびに当時の社会的・思想的文脈を反映した一形態であったと評価できる。

5. 戦中の統一方針と“うやむや”の終戦

1940年代に入ると、戦時体制の下で情報統制や国語政策の一元化が進み、横書きの書字方向についても一定の統一が模索されるようになった。内閣情報局を中心に、出版物の検閲や教育統制の一環として「横書きの標準化」に関する方針が内々に検討されていた。現存する文献の中には「横書統一案要綱」や「表記簡素化に関する意見要旨」といった草案文書が残されており、そこではLTRの採用を将来的な方針として掲げつつも、現時点では現場の実情に委ねる姿勢が明示されていた。

しかし、こうした統一の試みは制度的にも実務的にも不徹底なまま終わる。教育現場では教材の多様性や地域差、印刷所ごとの慣行が強く、LTR一本化には至らなかった。また、軍部主導の標語や宣伝物では、依然として視覚的効果の高いRTLの横書きが多用されており、書字方向の混在が解消されることはなかった。

このように、書字方向の制度的統一は戦時中においても達成されることはなく、むしろ「当面は併用を容認する」という妥協的措置に落ち着いた。事実上、書式の選定は現場や出版者の裁量に委ねられ、「LTRに移行すべきであるが、RTLも容認される」といった形で政策が曖昧なまま運用されたのである。

そして1945年の敗戦によって、こうした議論は制度化される前に一旦頓挫することとなる。皮肉なことに、戦中の文書行政で方針が定まらなかったことが、戦後GHQの方針によって一気にLTRに統一される余地を生む結果となった。つまり、戦中の制度的不徹底と終戦という断絶が、LTR定着の地ならしとなったのである。

6. GHQによる左横書きの標準化と制度化

1945年の敗戦後、日本は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領下に置かれ、あらゆる行政・教育・報道活動がその監督を受けることになった。その中で、日本語の書字方向に関する運用も大きく転換することとなった。

GHQの方針は一貫して合理性・効率性を重視するものであり、教育現場や出版物における表記形式も「国際標準」としてのLTR(左横書き)を基本とする方向で制度的に整備されていく。とりわけ英語教育や理数系教育においては、教科書や指導要領の刷新が進み、LTRが完全に前提とされるようになった。また、タイプライターや後のワープロなどもLTRに最適化されていたため、業務文書や報告書、官公文書でもLTRが事実上の標準となっていった。

この変化は、GHQの一方的な強制というよりも、日本側の「書式の混乱を整理したい」「国際的に整合性ある表記に移行したい」という実利的な意向とも合致していた。実際、教育関係者や印刷業界、理数系学会などは、戦前のRTLとLTRの混在に長らく悩まされており、LTR一本化に前向きな姿勢を取る者が多かった。

特に英語教員や理科教育の現場では、LTR化による教材の整理や図表・数式との整合性に歓迎の声が上がった。また、大手新聞社や雑誌社の一部も、戦後の刷新に合わせて編集・組版の合理化を図る上でLTRへの移行を推進した。

一方で、国語学者や一部の文芸関係者、保守的な思想団体の中には、「日本語本来の伝統に反する」としてLTR一辺倒の政策に疑義を呈する者も存在した。特に文学や古典研究を重視する立場からは、縦書きとの断絶や文化的意味合いの希薄化に懸念を示す意見も聞かれた。

また、書道界や教育界の一部には「左横書きは西洋模倣に過ぎず、日本語にそぐわない」という文化的反発が根強く残っていたが、占領政策下においては政策提言の場を持たぬまま、LTR表記が次第に現実として定着していった。

結果として、戦前・戦中において明確な方針が定まらなかった横書きの書字方向は、戦後の占領行政下で急速にLTRに収束していく。書字方向の標準化は、日本語表記の近代化・国際化の一環として制度的に定着するに至ったのである。

7. 技術革新と縦書き・RTL対応の限界

日本語の表記における技術革新は、まず1970年代以降に登場した日本語ワードプロセッサや日本語表示対応のコンピュータから本格的に始まった。それ以前の計算機環境では、日本語の縦書きはもちろんのこと、日本語そのものの表示すら困難であった。NECのPC-8001や富士通のFMRシリーズ、ワープロ専用機「書院」「OASYS」などは、日本語文字コード(JIS X 0208)に対応し、初めて実用的な日本語処理環境を提供することとなった。

1980年代から1990年代にかけては、MS-DOSやWindows、Macintoshといった汎用OSにおいても日本語環境が整備され、縦書き表示や組版処理を伴うワープロソフト(例:一太郎、Word、日本語版PageMakerなど)が登場した。これにより、印刷・出版の現場では縦書き組版のデジタル化が進み、DTP(デスクトップパブリッシング)の普及によって商業印刷物でも縦書きが扱いやすくなった。

さらに、2000年代以降のWeb技術においても、HTMLやCSSの仕様にwriting-modeの導入が進み、縦書き表現は技術的に十分サポートされるようになった。PDFでも縦組みが容易になり、教育資料や文芸作品などでの活用が見られる。

しかし、これらの機能は主に文芸・出版・デザインなどの限定された分野で活用されており、ビジネス文書や教育現場、ウェブコンテンツなどでは依然としてLTRが標準である。日本語における縦書きやRTL対応は「できるが使われない」技術となっており、実用上の需要は極めて限定的である。

RTLに関しては、そもそも文法的構造や句読点・数字表記などをLTRで前提とした運用が定着しているため、横書きで右から左に進める表記は、現代ではほぼ用いられていない。例外として、伝統的な装飾や看板、のれんなどに意匠的に用いられる程度であり、実用的文書では完全に姿を消している。

このように、技術的には柔軟な表記が可能となった現代においても、縦書きとLTRの二重構造は、用途と文脈によってはっきりと棲み分けられており、書字方向の多様性は“文化的表現”の一要素として残されているにすぎない。

おわりに:表記の混沌が照らす文化の層

本稿で見てきたように、日本語の横書き表記は単なる技術的・制度的変化の問題ではなく、日本という社会が近代化・西洋化とどう向き合い、また自国の文化的伝統をどう位置づけてきたかを映し出す鏡であった。

戦前におけるLTRとRTLの併存は、欧米的合理性と日本的身体感覚とのせめぎ合いを如実に示している。教育や出版、行政の現場では、実用性と伝統尊重のバランスが常に問われ、その揺れが横書き表記の揺れとして可視化されてきた。戦中の統一方針の未整備、GHQ統治下での整理、そして戦後に定着したLTR横書きという流れは、制度と実務が互いに影響し合いながら言語文化を形づくるという事実を物語っている。

また、技術的な縦書き・RTL対応が進んだ現代においても、それが全面的に復権することはなかった。むしろ、用途と文脈によってLTRと縦書きが明確に分化し、文化的象徴や演出の一要素として限定的に生き残るにとどまっている。これは、社会の合理化が進む一方で、表記に内在する“身体性”や“習慣”がいかに根強く残るかを示しているとも言える。

書字方向という一見些細な問題が、実は国家の制度、教育、文化、思想、そして技術の交差点に位置していた。その歴史を振り返ることは、日本語の近代史を読み解く上で欠かせない視点を与えてくれる。

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