近現代看護の創始者フローレンス・ナイチンゲールのそのイメージと実際の功績

近現代看護の祖として知られ、世界の偉人の1人として名を連ねているフローレンス・ナイチンゲールは、多くの場合はクリミア戦争における「ランプの貴婦人」あるいは「クリミアの天使」のイメージで語られることが多い。しかしながら現代における看護学の礎を築いた功績は「ランプの貴婦人」あるいは「クリミアの天使」から作り上げられたイメージではなく、むしろその後の生涯で培ってきた功績によるものが大きい。ここではそんなナイチンゲールの生涯を踏まえつつ、イメージと実際の功績の双方から考察してみたい。

フローレンス・ナイチンゲールの生涯

幼少期: 高度な教養と学識を授かる

フローレンス・ナイチンゲールは1820年に、裕福な家族の両親が新婚旅行中にトスカーナ大公国(現在のイタリア共和国のトスカーナ州に相当)フィレンツェで生まれ、そこからあやかってフィレンツェの英語読みであるフローレンスの名が付けられた。

裕福な家庭に生まれたナイチンゲールは、父ウイリアム・ナイチンゲールの方針から、外国語やギリシア哲学、数学、天文学、地理、文学など多岐にわたる教育を受けたことで、極めて高度な教養や学識を持つ女性として育った。

青年期: 看護への道を開く

1842年にイギリスで大飢饉が発生し、慈善訪問の際に接した貧しい農民たちの悲惨な生活を知り、徐々に人々に奉仕する仕事に就きたいと考えるようになった。

1847年にブレスブリッジ夫妻の連れ添いとしてローマへ旅行したときにシドニー・ハーバートと知り合い、帰国後にはハーバート夫人のエリザベス・ハーバート(通称リズ)とも親しくなった。

1851年にドイツのカイゼルスヴェルト学園で研修を受け、看護婦としての道を志すようになり、後の1853年にリズ・ハーバートの紹介でロンドンの病院に就職、後に婦人病院長となり、専門的教育を受けた看護婦の必要性を訴えるようになった。当時の看護婦は専門知識の不要な単なる召使いとしての職業と考えられていた時代であった。

クリミア戦争: クリミアの天使あるいはランプの貴婦人としての功績

1854年にクリミア戦争が勃発、クリミア戦争の前線における負傷兵の状態の扱いの悲惨な状況が報じられると、看護婦として従軍する決意を固めた。その後、シドニー・ハーバートの依頼を受けて、計38名の女性を率いてスクタリに向かった。

スクタリの兵舎病院の衛生状況は極めて劣悪で、なおかつ縦割り行政の問題から現地のホール軍医長官らに従軍を拒否される事態となっていた。ナイチンゲールはどの部署の管轄にもなっていなかった便所掃除に目を付けて、便所掃除から病院内部に入り込んでいき、スクタリ病院の看護婦の総責任者として活躍した。ナイチンゲールは病院の衛生状況の改善に力を入れ、病院での死亡率を引き下げることに寄与した。このときの働きぶりから「クリミアの天使」と、夜回りを欠かさなかったことから、「ランプの貴婦人」と呼ばれるようになった。

後に統計に関する知識を利用して、クリミア戦争におけるイギリス軍の戦死者・傷病者のデータを分析して、兵舎病院での死者の多くが戦争行為における負傷ではなく、病院の衛生環境の問題(感染症の蔓延)によるものであると推測された。

1856年にパリ条約締結、後に戦争が終結した。7月には最後の患者が退院して、翌8月に人知れず帰国した。クリミアの天使あるいはランプの貴婦人としての活動はおよそ2年の短い期間だった。

クリミア戦争後〜晩年: ベッドから重要な功績を挙げる

帰国後の1857年に過労により倒れてしまい、以後虚脱状態に悩まされてしまい、死去するまでの間はほとんどベッドの上で過ごす生活となるも、文献の原稿作成や手紙のやりとりが活動の主体となり、数多くの文献を残し、さらに現代に繋がる公衆衛生や看護教育の改革、後継者の育成で重要な功績を挙げた。また、統計学としても重要な役割を担い、1858年には王立統計学会初の女性会員となった。

1874年に父を、1880年に母を、1890年に姉を喪った。1901年には視力を失い、1910年8月13日におよそ90年にわたる生涯を終えた。死後に国葬を打診されたが遺族が辞退した。墓はハンプシャー州イーストウィローのセント・マーガレット教会の墓地にあり、生前の意向により墓標にはイニシャルと生没日のみ刻まれている。

クリミアの天使あるいはランプの貴婦人としての活動は短かったが、その後も数多くの重要な功績を挙げた

上記のフローレンス・ナイチンゲールは90年にわたる生涯のうち、現役の看護婦として活躍した期間は1853年から1856年で、ほぼクリミア戦争期を含めておよそ2~3年と短い期間にすぎなかった。この短い期間での活躍からナイチンゲールはクリミアの天使あるいはランプの貴婦人として讃えられるようになった。

しかしながら、ナイチンゲールの挙げた功績の中で重要といえるのはむしろその後のものである。ここではクリミア戦争後のナイチンゲールの挙げた功績についていくつか記載してみたい。

ナイチンゲール文書として多くの文献を遺した

クリミア戦争後のナイチンゲールの主要な活動の一つとして、様々な分野において重要な文献を多数残した。その中では主に看護に関するものをはじめ、インドをはじめとした植民地における福祉、社会学、統計学など多岐にわたっている。

ナイチンゲールの遺した著作は「ナイチンゲール文書」とも呼ばれ、多くの国に渡り、現代でも引き継がれている。その中でも『Notes on Nursing』(看護覚え書)は現代でも看護の古典として知られている。

教育者として多くの後継者を育てた

クリミアから帰還したナイチンゲールの元にはおよそ45,000ポンド(現在の価格では、1ポンド2万円と換算して、およそ9億円に達する)にも及ぶ寄付金が寄せられ、それを元に聖トーマス病院内にナイチンゲール看護学校(現在はキングズ・カレッジ・ロンドンの一部となっている)を開設、一般の看護婦教育と同時に管理者教育にも力を入れており、後に世界中にこの方式を基礎とした教育や管理の形へと発展した。

公衆衛生の改革者にして病院建築家

当時の英国、特に都市部の生活環境における衛生面の問題およびそれによる国民の死亡率の高さから、生活環境に対する国民の意識を改善させるための対策に取り組んでいた。

ナイチンゲールは看護婦としての経験および統計学から衛生環境の改善で感染症を防ぐことができ、そのためには衛生面の改善が必要不可欠であることを主張していた。このなかで、換気や採光、衛生を保つことなどの防止策が提唱された。この考えは現代では当たり前になっている発想であるが、当時の一般人の間では浸透しておらず、旧来の陋習との戦いでもあった。

また、公衆衛生の改革の一環として病院建築のありかたを模索し、その成果がナイチンゲール病棟として提唱され、聖トーマス病院の南病棟をはじめ19世紀後半のヨーロッパで多数建築された。

優れた統計学者

幼少期から数学に明るかったナイチンゲールは、統計学を生かしてクリミア戦争における兵士の原因究明を行い、当時としては棒グラフや円グラフが一般的でなかった時代で、こうもりの翼あるいは鶏冠とも言われるグラフを用いて視覚的に統計学情報が分かりやすいようにあらわし、それをもとに病院の環境改善や看護の提供の効果などを説明して、改革のうえでの重要な材料としていた。

統計学を駆使して近代看護を確立した功績から、ナイチンゲールは「統計学の母」とも呼ばれるほどの優れた統計学者としても活躍した。

最後に

今回はランプの貴婦人あるいはクリミアの天使と呼ばれていたフローレンス・ナイチンゲールの生涯と功績から、一般的なイメージと実際に挙げた数多くの重要な功績の両面から説明を行ってみた。ナイチンゲールのランプの貴婦人あるいはクリミアの天使としての側面はナイチンゲールの長きにわたる生涯と数多くの功績を考えればほんの一面にすぎず、しかしながらその一面がナイチンゲールの大きなイメージに繋がっていることがうかがえる。また、これまでのナイチンゲールの生涯を踏まえると、むしろクリミア戦争後に看護をはじめとした改革に全力を尽くし、その多くが現代に繋がっていることを考えると、ナイチンゲールの功績がいかに重要だったかを考えさせられる。

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